谷川さん いやいや、名古屋のNさんは、タライに長く住んで仕事をやってきて、ああやって心を痛めているのだから、そこへ塩を塗り込むようなことは、どうも。 「地理、経済、政治、文化」ですか。 この言い方の背景装置というかパラダイムというか、これは大変便利だし分かりやすい。これは例のオリエンタリズムそのもの。いやいや、日本列島から折り返してネパールを見ているのだから、オキシデンタリズム。いやいや、ヨーロッパまで逆戻りしていないから、天竺イズム? 社会や文化には、見えないけれど何らかの意味を担った構造があるのでしょう。国民国家やその国境が成立するはるか以前から、あのあたりは、つまりタライ平野はヒマラヤの諸王国に属していたようです。 まず、南北を画するのは川でした。その川も、あれだけの高度差があって、同じ種の魚にしても、川ごとに微妙に遺伝子が異なるようです。つまり、魚も人も東西への移動は、ある時期までかなり制限されていた。おおむねそれにそって、昔の藩候国は成立していました。 それから、経済的な基盤は交易でした。チベットの塩、ヒマラヤの薬草、そしてインドの米。その行き交う中継地点であるカトマンズやポカラはそれで栄えています。そのさらに下に位置するタライ平野の主要拠点が、今のタライ平野の主な町なのです。今でも、トレッキング街道ですれ違うロバの隊商は、あのあたりまで降りて塩を売って帰ります。 もう一つは景色。景観。タライを見下ろす2000メートルくらいの山から見ると、見えるところまでは領土であって欲しいとの、自然の欲求を覚えます。カトマンズから真南へマヘンドラ山岳街道を使ってタライへ出ようとすると、2000メートル級の峠を越えながら、遥か下方に平野が見えます。冬の晴れた夜ですと、空気が透き通っているので、地平線まで星が見えます。錯覚なのでしょうが、とにかく目の下に星が見える。あの感動は、数千年に渡って、あのあたりの峠を越えた旅人が抱いた感慨なのではないでしょうか。 それから、食料生産。平野部の食料が無ければ、チベットの塩も降りてこない。山岳部の人々は、平野部から上がってくるいくばくかの食料なしには、とうてい生存できない。それは観光収入でも、出稼ぎでもいい。 そんなこんなで、タライ平野がネパールの丘陵部や山岳部とセットで成り立っていたのだと思うのです。 それらが均衡を保っていた頃は、問題はなかった。しかし、自然資源の摩耗(隣のブータンには森林破壊は起きてない)と、所得の再配分のシステムとそれに関わる政治的諸権利の不均衡が、齟齬を来してしまえば、政治問題になる。 そのパターンはいつも同じで、生産性の低い山岳部が富を求めて丘陵部や平野部に向かう、という運動が間歇的にいつも起きる。ゴルカからシャハが下ってきたのもそうだし、マラリア撲滅後の山の民のタライへの大量移住もそうだし、マオイストが西部山岳部から下ってきたのもそうだ。マッラとティルフットの確執もそうだ。ネパール清国戦争もそうだ。おおむね、北の方が権力と武力、南の方が富と人口で戦う。 一方、インド平原側から言えば、たかだか南北100キロから30キロくらいのこまっちい地面。 要するに、谷川さんが上げている論点とは関係なく、何百年も前からこういう形になっている。それにはそれの内在的原理があるに違いない。 もちろん、その内在的原理は変化し得るから、どうなるか分からない。ネパールという国家が消滅する可能性だってある。隣のシッキムは消えた。ブータンも半ばはインドだ。 インドとネパールの間の国境が、オープンボーダーであることは、そういうあらゆる可能性を秘めていると思う。