2月8日付けの朝雲新聞のコラムに面白いものがありました。 安倍総理が集団的自衛権再構築を公約にしているが、そもそも日本近辺の米軍に対する攻撃は自動的に日本の有事となるし、地球の裏側でのそれは日本の有事ではないから、いずれにしても再構築の意味がよくわからない。そして、 「PKOで言えば、そもそも国連のマンデートで行動する軍隊に「自衛権」を適用することには論理矛盾がある。国連憲章51条は、安保理が行動を起こす前の措置だ。」とあります。 これははっきりしていますね。PKOに参加するのは自衛隊では無理だ、交戦権を持った軍隊でなければならない、そのほうがすっきりしていていい、という認識がここにあります。PKOに自衛隊を出すのなら、自衛権を超えた交戦権を持つ軍隊にしてからにしろ、と言わんばかりの本音ですね。1991年の制服組の本音と同根です。 制服組にも、医官や司法官もいるわけですから、これはまさしく「部隊の論理」なのです。これを言い換えると、シビリアンコントロールの軽視、あるいは無視なのです。こういう考えが堂々と出てくるところが、勇ましいというか軽挙盲動というか、軍隊の野蛮さそのものでしょう。 1月9日の防衛省移行記念式典で、かの中曽根康弘氏ですら、「今後の課題として文民統制がある。」と挨拶で発言しています。中曽根氏は文民統制を「シビリアン・スプレマシー(政治優位性)」と表現したそうです。(『中央公論』3月号、p251) 私は、2月7日に防衛省・外務省以下のネパール調査団が帰国していますから、この2月8日の時点でこういう意見が防衛省のお膝元から表に出てくることに興味があります。偶然とは思えないのです。 上記のような「部隊の論理」からすれば、停戦監視とは言えPKOでもなくて、非武装で私服で8人くらいが自衛隊としてネパールへ派遣されることは、第一回目の本体業務としては政治的優位性が明らかになってしまうので、それへのいらだちを隠せないのではないでしょうか。 このコラムは、結論として、安倍首相の傍に防衛が分かるものがいないとだめだ、と言っています。部隊の論理が分かっていない、と案にシビリアンコントロールを牽制しているわけです。そこまで言うのか、と驚きました。何か思い上がってしまっていますね、このような論者は。 (参照) 国連憲章第51条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。