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  時流とジャーナリズム,個人善と集団悪
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 No.070731120316389263    07/07/31(Tue) 12:03   by  tanigawa [変更] [削除]
1.「美しい国」幻想
参院選で自民が大敗した。

自民(改選議席)64→(当選者)37 (改選前総議席)110→(改選後総議席)83
民主(改選議席)32→(当選者)60 (改選前総議席)81→(改選後総議席)109

敗因は,直接的には年金(社保庁),政治資金(松岡,赤城),原爆しょうがない発言(久馬)だが,最も根本的なのは,安倍首相の「品格」欠陥だったといってよい。安倍首相は,本物の「ワル」でも「善人」でもなく,そのくせ空威張り,猪突の政治家不適格の人物だ。このブログでは,安倍政権成立前後から,安倍首相の「ニセモノ」「アナクロ」「猪武者」を批判してきた。たとえば,

 「安倍首相の怪著『美しい国へ』」(2006.10.29)http://nepalreview.spaces.live.com/Blog/cns!3E4D69F91C3579D6!483.entry

ところが,教室で安倍首相の評価を求めると,大部分が北朝鮮強硬政策を絶賛したり,「美しい国」をもてはやしたりする。腹が立ったので,本来,こんな言いっぱなしブログは教室で使うべきではないが,上記ブログを印刷し,安倍首相のニセモノぶり,『美しい国へ』のお粗末さを解説してやった。

2.時流迎合ジャーナリズム
この「美しい国」幻想については,ジャーナリズムの責任が大きい。ちょっと読めば『美しい国へ』の軽薄さは明白なのに,マスコミは「書店で平積み」「50万部突破!」などと,ちょうちん持ち。見苦しい限りだ。

時流迎合,多数派の味方は,本来のジャーナリズムではない。時流や多数派に流されることなく,本物とニセモノを見分けること。多数派にいかに嫌われようが「悪魔の代弁者(J.S.ミル)」になって,まず「ノー」といって,時流や多数意見を検証する。ハエのようにブンブンうるさく飛び回って大衆の独断のまどろみを覚醒させるのが,ジャーナリズムだ。

3.ネパール・ジャーナリズム
時流迎合という点では,ネパール・ジャーナリズムやアカデミズムは,日本以上にひどい。時流といっても,10年後,20年後を考えた時流ならまだしも,そうした歴史感覚もなく,いま目の前で動いているその流れに棹さし,波に乗ろうとしているにすぎない。

共和制がその典型。共和制の波が来たら,昨日までのことはころりと忘れ,われがちに飛び乗る。なぜまともな共和制批判が現れないのか? ネパールのジャーナリズムもアカデミズムも,共和制批判の責務を放棄している。日本ジャーナリズムが「美しい国」幻想批判を回避し,よい子ちゃんになっていたように。

4.抵抗者マオイストに即して
マオイスト報道についても同じだ。マオイストが構造的暴力(貧困,搾取,差別,偏見など)の犠牲者の立場に立ち,彼らを苦しめている社会構造からネパールを根本的に変えていこうとしていることは,基本的に正しい。マオイストが「主流(main stream)」に対し異議申し立てをしていた頃,わたしは彼らの立場への理解を繰り返し訴えてきた。たとえば,

 「不況・飢饉・マオイスト」(1998.07)http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/tanigawa/npl/archives/0005.htm

マオイストは,王族殺害事件前後までは,時代錯誤の絶滅危惧種として珍奇の目で見られ,現地ルポでも,

「マオイストはまともに読み書きできず,マルクスも毛沢東も知らず,ただ教え込まれたスローガンを叫んでいるにすぎない」

といった類のものが多かった。それは,生活苦と社会悪への生の怒りから,やむにやまれず武器を取り抵抗を始めた人々への無理解であり,不当な侮蔑とすらいってよかった。そこで私は,マオイスト反乱の正当性を説明し,

「では,日本国民の何人がスミスやリカードを理解し資本主義経済活動に従事しているのか?」(発表先失念)

と反論したものだ。資本主義理論を説明できなくても,資本主義経済活動は出来るし,事実,大部分の人はそうしている。自分のことを棚に上げ,マオイストの理論的無知を軽蔑するのは,天にツバするようなもの,恥知らずのニセ傲慢ジャーナリストだ。

5.生活共産主義と体制共産主義
日本でも共産党に対しては,戦前・戦後の「アカ」教育で洗脳されていたため,人々は冷たかった。

しかし,高度成長前後頃までの地域の共産党員やシンパは,それは誠実,模範的な共産主義者だった。村や都市下層住民の苦しみを直に肌で受け止め,共感し,彼らのために無私の活動を続けていた。

そうした地域の平党員やシンパたちは,マルクス・レーニン・スターリンなどの理論は,おそらくよく知らなかっただろう。しかし,彼らの怒りが本物であり,活動が誠実であることは見ていてよく分かった。彼らの実感に基づく生活共産主義活動は間違いなく本物であり,私はつねに敬意を表していた。

しかし,その実感に基づく共産主義活動が組織化され,体制化すると,これはとんでもないことになる。スターリンは批判されたが(ネパールではまだスターリン批判以前),体制共産主義はウェーバーの予言通り官僚主義に毒され,民主集中制にしても批判の自由は実際にはない。草の根生活共産主義の実感に基づく怒り,誠実な忍耐強い活動と,共産官僚主義との間には,超えがたいギャップがある。

ネパールでも,地域の抵抗する草の根マオイストを侮蔑することは許されない。全体として,彼らの怒りは本物であり,抵抗は正当だからだ。しかし一方,その抵抗運動が拡大し,地域で支配的になり,中央でも主流(main stream)に入ろうかという段階になると,共産主義運動も実感レベルではやっていけず,必ず官僚制化し,体制化してくる。官僚制化は不可避であり,そのこと自体は非難には当たらない。問題は,官僚制化し,体制化すると,生活実感共産主義の維持が困難になり,運動が共産官僚主義化してくることだ。

R.ニーバーに『道徳的人間と非道徳的社会(Moral Man and Unmoral Society, 1932)』という本がある。彼がいうように,善意の個人が集まっても,人は集団になると非道徳的に行動せざるを得ない。マオイストも同じだ。

ジャーナリズムやアカデミズムは,この集団のメカニズムを注意深く観察し,批判すべきは批判しなければならない。草の根の実感としての怒りや行動が本物であっても,官僚制化された運動が本物とは限らない。一人一人が善意の個人であっても10万人,20万人の集団になると,unmoralな別の要素が入ってくる。ジャーナリズムは,そのmoral―unmoral―immoralの関係を批判的に観察し,報道しなければならない。

それなのに,ジャーナリズムやアカデミズムが,自ら10万人の中に入ってアジっていては,職責忘却といわざるを得ない。ジャーナリズムやアカデミズムの堕落は,権力や大衆から嫌われることを忌避するところから始まる。嫌われてこそ,ジャーナリズムなのだ。